『奥民図彙』の「子ムタ祭之図」

この記事は「青森ねぶた祭り Advent Calendar 2015」の12月15日分として書きました。

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上の図は、弘前藩士の比良野貞彦という人が著した『奥民図彙』の中にあるねぶた祭*1に関する図入りの解説です。奥民図彙が書かれたのは天明8年から9年(1788年から1789年)にかけてのことで、当時の津軽地方の庶民の生活を記録した貴重な文献です。

この「子ムタ祭之図」は、ねぶた祭りについて描かれた最古の図とされており、最近は青森ねぶたのパンフレットなどにも掲載されています。また、奥民図彙そのものは図書館などで閲覧できます。

見ての通り、現代の扇ねぶたや人形ねぶたのようなものはまだ使われておらず、飾り立てられた四角や丸い灯籠らしきものを、竿の先に乗せたり神輿のように担いだりして運んでいることが分かります。扇のようなものが乗せられた灯籠があるので、これは扇ねぶたの原点なのかもしれません。

灯籠には「七夕祭」や「二星祭」と書かれています。ねぶた祭りがもともと七夕の風習にはじまったということは、以前のエントリー『イザベラ・バード著『日本奥地紀行』における明治初期の黒石ねぷた祭りの描写』でも紹介しました。「織姫祭」と書かれているのも興味深いですね。祭りの名前こそ「子ムタ祭」となっていますが、この頃はまだもともとの七夕祭の意味合いの方が強かったのかもしれません。

「石投無用」の文字も面白いです。ただの注意書きなのにメインの「七夕祭」と同じ大きさで書かれています。それだけ、石投げについては関係者の頭を悩ませていたんだろうなあと想像できますが、この"石投げ"には単純に石を投げるいたずらに留まらない意味が含まれているのではないかという見方もあります。

この頃のねぶた祭りでは喧嘩が絶えず、お上からもよくお叱りを受けていたようです。江戸時代の文献にはたびたびねぶたに関する記述が現れますが、その中には「喧嘩を禁止する」といったお触れも少なくありません。"石投無用"には、そういったイザコザ全般を諌める意味があったという想像もできます。これ、今だと「跳人は正装」ですね。

ところで弘前ねぷたや青森ねぶたについての江戸時代の文献では、この奥民図彙のような図入りの解説というのは非常に珍しいそうなのですが、黒石ねぷたについては「分銅組若者日記」という書物に天保12年(1841年)から慶応4年(1869年)までのねぶたの絵が100個ほど掲載されています。これについては『津軽ねぷた論攷 黒石 《分銅組若者日記》解』(笹森建英著)という本で詳しく解説されているのですが、扇以外にも人形が載せられたものや、お城のように飾り立てられたものなど、多種多様で興味深いです。

さて、話を奥民図彙に戻しますが、このページのタイトルは「子ムタ祭之図」です。「ネブタ」でも「ネプタ」でもなく「ネムタ」です。奥民図彙に限らず、この頃のねぶたに関する表記はほとんどが「ネムタ」や「ネフタ」だったようです。

何にせよ、この「子ムタ祭之図」一枚だけでも、いろんなことが想像できて面白いです。奥民図彙はねぶたに関する古い文献の中では特に有名なものなので、暇なときにでもじっくり眺めてみるといいかもしれません。

*1:弘前のなので正しくは"ねぷた"ですが、使い分けが面倒なのでここではすべて"ねぶた"と表記します