古い文献における「ねぶた」の表記

この記事は「青森ねぶた祭り Advent Calendar 2015」の12月16日分として書きました。

今日は「ねぶた」の表記について取り上げます。

現在は、ねぶた・ねぷたという呼び方は、「眠たい」が「ねぷたい・ねぶたい」と変化していったものだという説が一般的です。ねぶた祭りは七夕の頃に行う眠流しの風習が形を変えたものだと言われています。眠流しというのは、その名の通り「眠たいもの」を流して追いやる風習です。眠たいものというのは、農繁期に農作業の邪魔をする悪いもの(暑気や病気、気だるさなど)を象徴したものです。眠たいものを、笹や灯籠などの形あるものに置き換えて、川や海に流すというわけですね。*1

さて、この「眠たい」がいつ頃から「ねぷた」や「ねぶた」という呼び方に変化したのか気になるところです。しかし残念ながら、これには諸説あって結論が出ていません。その代わりと言ってはなんですが、ここでは江戸時代の古い文献で「ねぷた・ねぶた」がどう表記されていたのかを紹介します。

  • 「大灯籠」- 文禄2年(1593年)

弘前藩(津軽藩)の初代藩主である津軽為信公が、京都の盂蘭盆会で家臣の服部長門守康成に二間四方の巨大な灯籠を作らせて披露したという記録が『津軽偏覧日記』に残っており、この大灯籠をもってねぶたの起源だとする説があります。
ただし、この大灯籠がねぶたと関連があるかどうかについては確証的な文献がないため、この大灯籠起源説は後年に作られた眉唾ではないかとも言われています。

  • 「眠流し」- 享保5年(1720年)

弘前藩の『弘前藩庁御国日記』において、5代藩主津軽信寿公が「眠流し」を高覧したという記録が登場します。御国日記は1675年から付けられていますが、ねぶたに関連すると思われる記述はこれが最初だそうです。このときの表記は「眠流し」です。

  • 「祢ふた・祢むた・ねむた」- 享保7年(1722年)

同じく御国日記で、信政公が織座で「祢ふた」を高覧したという記録があります。この記録では、「祢ふた」「祢むた」「ねむた」という3つの表記が同時に登場します。ただし、「祢」については「ネ・ね」の崩れ字として使われていたので漢字・かなを意識して使い分けたわけではないとも言われます。

以下、それ以降の文献に登場する表記をリストアップしてみました。年は、初出と思われるものです。

  • 「ね婦た」- 享保11年(1731年)
  • 「ねふた」- 同年
  • 「祢ぶた」- 安永6年(1777年)
  • 「子ムタ」- 天明8年(1788年)
  • 「人形祢ふた」- 文政11年(1828年
  • 「稔富た」- 明治6年(1873年)
  • 「佞武多」- 明治15年(1882年)
  • 「ネブタ・祢侮多」- 明治25年(1892年)
  • 「佞武た」- 明治31年(1899年)

「婦」は「ふ」だけでなく「ぷ」とも読めるそうです。また、「武」や「侮」は「ぶ」とも「む」とも読めるそうです。頻度が高いのは「ねふた」と「ねむた」でした。「ねぶた」が明確に登場するのは1777年です。ただし、漢字・かなの表記がそのまま当時の発音を表しているわけではなく、これを単純に並べて「ねぷた」「ねぶた」の名前がいつ頃から使われていたかを断定することはできないので、注意が必要です。

せっかくなのでもう少し書きます。

『「ねぷた」―その起源と呼称』(松木明知著)という本には、ねぷた・ねぶたの呼称の起源について非常に詳しく考察されています。この中で松木氏は、当時まだ半濁音の表記法が一般的ではなかったため、「ぷ」を表現することができずに「む」や「ふ」と書いたのではないか、と考察しています。一方で濁音の表記法はすでに一般的だったので「ねぶた」という表記は可能だったはずで、それをしていないということは「ねぷた」の方が起源ではないか、というのが同氏の主張です。

一方で、この説に対する反論もあります。『地域学』第9巻には、室井努氏による「ねぷたの語史説に関する問題」と題した研究報告が掲載されています。これは松木氏のねぷた語源説に対して、日本語史の観点から問題点を指摘するものです。室井氏による結論は、ハ行の濁音と半濁音は現在でも混同されがちであり、音韻論の観点でも江戸中期にその区別が成立していたかは明確でないため、そのような状況でねぷたの語形に執着するのは時期尚早だ、というものです。

ということでやはりまだ議論は続いているというわけです。ちなみにこの2つの研究は呼称に焦点を当てたものではありますが、ねぶたの歴史を文献に沿って知る上でもとても参考になる資料なので、読んでおいて損はないかと思います。

*1:このあたりの話は、柳田國男の『眠流し考察』に詳しく解説されています。